はじめて山にのぼった記憶というと

はじめて山にのぼった記憶というとなんだかぼやけていてるのだけれでも、それよりもはじめて森林限界をこえたこと、の方が体験としてとても具体的で、山をのぼることのかなり大きな部分を、森林限界をこえる、ということばで言いかえれそうなくらい自分にとっては大きい。森林限界ってことばなのか、線なのか、場所なのか、わからない。とにかく限界、という響きがもたらす厳しくてストイックな感じがかっこいい。森林限界と人身売買って響きが似てるよね。森林限界って本当は人が立ち入っちゃいけない、みたいな禁欲的な感じがたまらなくて、森林限界のほんとうのギリギリの最後の高い木のところに門番がいて「ここから先は森林限界だ.。行くか行かないかはおまえの自由だ。」とかいってほしい。そうして高い木をくぐりぬけ、まずはハイマツに挨拶して、その先の美しい景色を眺めていると、ああ、天国と地獄ってやっぱそっくりじゃんって思う。

限界といえば、昨日ラジオで限界集落の話をしていて、限界集落というものはもはや対策のしようがなくて、しぜんに誰も住まなくなるのを待つことしかできないそうだ。そうなれば、そこにはかつて人が住んだ痕跡だけが残り、それが自然の侵食と混ざり合って神々しい光を放つだろう。週末には都会から人々が訪れ、IPHONEで写真を撮るだろう。

そういえば僕は滑落、ということばも気になっていて、いつも行く銭湯の待合に漫画の「神々の山嶺」があって、いつもエベレストで人が滑落するシーンのところを開いてしまう。あのばかでかいヒマラヤの斜面で滑落する瞬間は、断末魔の叫びも恐怖の表情も何もなく、ただ人が奈落に向かって落ちていくだけ。死とは残酷で恐ろしいものだ、みたいな感情が一切入る余地のない完璧な沈黙が空間を支配する。マリオが無表情で画面の下に落ちていく姿を思い出した。ただ1が0になるのだ。

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