今読んでる池内紀の本の中で

今読んでる池内紀の本の中で、山に登って、頂上に着いたとき、

 

声に出すと、何かが終わってしまうような気がしてならない。(中略)私たちはともにソッポをむきあったまま、しばらくのあいだ茫然と山頂の岩陰にすわっていた。

 

とあって、同じく本の中で辻まことの文章というか詩を引用して、

 

登りつめたそのとき、バンザイとさけんでいたら、あるいはヤッホーと声に出して息をはいたら、私の何かが終わっただろう。

 

 と、ある。

 

その、終わってしまう「何か」、とは何か?

なんとなくわかるような気がするけどうまくいえない。それを説明しようとすると、またさらに手前にある「何か」が終わってしまうような、そんな何か、、。いくつもの要素が複雑にからみあっていて、それが大きなひとつの魅力を形成しているんだけど、それをひとつひとつ解きほぐして列挙してみたところで、すでに元のかたちを思い出すことができない。山はややこしい。

 

僕は写真が仕事でもあるし、山でもかならずカメラをもって写真を撮る。ほんとはカメラなんてなければもっと山をからだいっぱい受け取れるはずだけど、こればかりはもう自分は写真屋なのでしょうがない。シャッターをきって「何か」が終わってとしても、知らんふりをとおしていく。

 

これはどうだろう。家に帰るまでが遠足、というのはよく使われるいいまわしだけど、家に帰ったからといっていきなりバッサリと山が終わるのではなくて、家に着いても山登り後の「何か」、がもう随分減ってきてはいるけどぎりぎり体に残っていて、あえてなかなか布団に入らずにじわじわと味わったりする、、。このときはまだ「何か」が残っていて、だから山が続いているといってもいいんじゃないか。でもここでいう「何か」は頂上に着いたときとは違う「何か」なのかもしれない。けど同じような種類の「何か」、ではあるような、、。

 

とこうしてブログで書いて何かをアップするときだって「何か」がなくなってそうだし、ツイッターでつぶやくときなんかリアルタイムすぎてリアルタイムの「何か」がなくなってるよ絶対。

 

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