なんか、気持ちいいの通り越して、なんかヤバイ

山に登っているときに山に登っていることにほんとに集中している時間なんてけっこう少ない。そういうときは頭も体も区別がなくて、全部でひとつのセンサーになって、受身状態になる。受動態。山を能動的にのぼっているのではなくて、山からやってくるものに対してオートマチックに反応しているだけ。体のあらゆる間接を無駄なく連携させて、山の斜面の複雑なかたちに自分の体をピタッとよりそわせていくような感覚。

不思議とこの状態になると、あっ、今オレはそのモードの真最中だ、と冷静に気付くことが多い。気付いた時点でそのモードが終了するのではなくて、むしろけっこう安定していて、気付いた自分が山モードの自分を俯瞰しているような浮遊した感覚が味わえたりする。

こういうとき、わあ、山に入ったなあ、としみじみ思って、ちからがわき上がってきて、このちからは永遠につづくのではないか、誰にもオレをとめることはできないと思うくらいで、けっか、そんなわけはなくて、ちからが無くなって休憩しようと腰をおろして水を飲んでいるとしょんべんがしたくなって、しょんべんする。ザックのところに戻ってきて、体の熱が放射されるのを自覚しながらふたたび腰をおろして、目の前に転がる小さい砂礫の、日のあたってる部分と影になった部分の境界線のあたりを、ずっと、ぼけっと見つめていて、そもそも見つめているのは砂礫というより、その先にある何かであって、むしろ見つめているというより、ただ目を開けているだけかもしれない。しばらくして視線をはずして、ぐっと腰を上げたその時にはすっかりモードは終了していて、もうすでになつかしい。